コエル・インタビュー コエルな人たち●第1回 田中さん
元ソルトレイクパラリンピック日本代表、スキー講師
田中哲也さん
障害があってもスキーができる。そこに惹かれたのが始まりですね。
障害は眼鏡をかけているのと同じ
子どもたちに、そのことを伝えたい。
 サイボーグ、と言えば語弊があるだろうか。アルミやチタンを削り出した、メカニカルなデザイン。前後だけでなく、必要に応じて左右にも、また“膝”を支点に回転もする。そんな“義足”を、子どもたちが食い入るように、同時にもしかしたら目を向けてはいけないのでは、といった表情も浮かべつつ、見つめている。
 札幌市内の公立小学校。6年生の総合学習の時間。1、2組合わせて約70名の子どもたちの前に立った田中哲也さんは、自分が右足を失った経緯を、静かに語り始めた。神妙な顔つきの子どもたち。しかし、真っ黒に日焼けした田中さんの顔を見て話を聞いているはずが、視線はついつい義足へと下りていく。
「そもそも、それが目的なんですよ。話の中身なんて聞いていなくてもいい。義足ってどうやって動くのか、ちゃんと歩けるんだろうか、痛くはないのか……。目の前の僕を見て、義足に触れて、そんな疑問を解いてしまえば、障害を持つ人への思い込みや偏見なんてスッと消えてしまう。特に、まだ自我が固まってしまう前の小学校高学年あたりの子どもたちは、障害者の見方ががらりと変わるんです。たった数時間ですが、もう、この子どもたちは、街で義足や車椅子の人を見かけても違和感なく接することができるはずですよ」
 ある先生の誘いを受け、田中さんはこの学校訪問を毎年1回、もう6年以上も続けている。2時間程度の触れ合いだが、小学校を卒業した子どもたちに街で声をかけられることもあるという。義足姿で子どもたちと接する。ただそれだけの取組みと、田中さんは話すが、子どもたちにとっては強い印象の残る体験となるようだ。そしてそれは、普段の生活の中で障害者と接する機会が少ない、あるいはどう接していいか分からずに避けてしまっているということの裏返しでもあるだろう。
「よく、子どもたちに言うんです。目が悪い人は眼鏡をかけている。障害者もそれと同じだってね。確かに、障害の種類や程度によっては不便もある。でも、夢をもったり、やりたいことに取組んだり、楽しいと思う気持ちはまったく変わらない。可愛そうなことなんてないし、そういう意識で、はれ物にでも触るようにされるのが一番嫌なんだとね。僕たち、私たちと同じなんだと思えるようになれば、それじゃあ、できないことは手伝ってあげようという優しい気持ちも芽生えていく。そのきっかけづくりを、僕はしていきたいと思っているんです」
 自分は事故で片足を失った。自らの不注意だった。だから、普段から注意して、自分のような大けがをしないように。そんな呼びかけとともに、万が一、障害などを負うようなことがあっても、後悔するのではなく前向きに生きていればできないことはない。長野、そしてソルトレイクパラリンピックに出場した自分の体験とともに、そんなメッセージも残して田中さんは“授業”を終えた。
授業風景01 授業風景02 授業風景03
足を失ったのは、すべて自己責任
だから立ち直りも早かったんです
 小学校時代はソフトボールに没頭、中学校ではバスケットボール部と陸上部をかけもちし、中・長距離ランナーとして活躍した。高校に入っても、さまざまなスポーツ競技に取組んでいた田中さんが、片足を失う事故を起したのは短期大学2年生の時。翌春には卒業という秋のことだった。オートバイを運転していてカーブを曲りきれず、道路脇の標識に激突。右足が大腿骨に取りつく関節(骨)の一部を残して完全に千切れ、身体は50メートル近くも飛ばされた。
「まったく意識のない状態。救急車の中で気がついたら、救急隊員が驚いてね。まったく動かないし、もう助からないと思っていたんじゃないかな。僕は僕で、痛みはまったく感じなくて、それどころか足が無くなっていることも知らなかったんです」
 右足はもう戻らない。そのことは翌日、母親から聞いたという。誰が告知するか、医師を交えて長いやり取りの末、お母さんが決心した。ようやく成人を迎える大学生。いよいよこれから社会に出るという時に、右足を失ってしまう。両親や関係者の思いは想像に余りある。自分の家族や大切な人を思い浮かべてみれば、それは誰にも実感できる。
 一方、突然にして足を失った本人の心境もまた、堪え難いものがあるだろう。こればかりは、当事者でなければ分からない。
「それはね、落ち込みましたよ。でも、事故は完全に自分だけの責任。誰のせいでもない。だから、右足を無くしたという現実と戦っていくしかないと。数日後には、ある程度気持ちの整理もついてね。車にはねられたとかじゃなく、自業自得と思えたからこそ、立ち直りも早かったと思うんですね。変な言い方かも知れませんが、単独事故だったことが幸いした。今にして思えばですけどね」
 入院とリハビリテーションを合わせ、およそ1年半後に学校に戻って卒業し、その後もリハビリを続けた。リハビリにおよそ1年もかかったのは、残った左足にも骨折が見つかったことと、その左足から皮膚移植した切断部がなかなか定着しなかったせいだという。1回目が4時間、2回目には8時間に及ぶ移植手術を行ったものの経過がおもわしくなく、自然に皮膚ができるのを待つために3カ月ほども要した。
「その頃は寝たきり状態。身体は元気なので、暇でね。おかげでテトリス、全クリですよ(笑)。一番辛かったのは、入院から3週間くらい経った頃かな。身体の腫れが退いてくると、切断部がものすごく痛くてね。ノコギリで身体を切られると、きっとこんな感じだろうなっていうくらい。1日3回、寝る時には3時間おきに痛み止めを打ってもらわないと、とても眠れなくて。医師や看護士さんの励ましがなければ、気持ちがどうにかなっていたかも知れないですね」
 痛みが紛れるならと、病室での喫煙を認めてくれた担当医。また、ベッドのまま外へ散歩に連れ出してくれた看護士とは、今でも連絡を取り合っているという。快復には医療技術や薬以上に、人の気持ちが効く、とは田中さんの実感だ。
幼少時代 マラソン大会 修学旅行
とにかく負けたくない。その気持ちが
二度のパラリンピックに結びついた
「ギャンブルではなく、社会復帰の練習ですよ。大切な訓練だったんですから」
 と、田中さんがどこか、言い訳交じりに話すのはパチンコ。退院後は文字通り毎日、パチンコに通っていたそうだ。1日3,000円だけ。そう決めて、台に向かった。当時は、それだけあれば1時間以上は遊べた。それが、何よりの気晴らしだった。
「お前、それじゃ人間ダメになるぞと、友達が就職を紹介しくれて。素晴らしい友に囲まれていたんです(笑)。それで、もう電話したから面接に行けと。賃貸住宅の仲介会社で、お客さんを部屋に案内して説明する営業の仕事でした」
 障害者ということを話すと、一度は断られた。しかし、「本人に会いもしないで断るとは」と件の友人が申し入れ、面接に赴いて採用となった。最初から、車椅子ではなく義足を付けて歩くことを望んだ田中さん、患部が擦れて血だらけになりながら懸命の訓練を行い、5階くらいまでなら、難なく昇り、そして降りることができた。
 義足の生活にも慣れると、もともと好きなスポーツに目が向いた。当時、発行されていた障害者スポーツ雑誌に載っていた、チェアスキーやアルペン競技に惹かれた。「障害者でもこんな競技ができるんだ」。だが、いざゲレンデに行ってみると、片足で滑ることはできたが、少し滑るとひどく疲れてしまう。怪我の快復のために体力、そして筋力が奪われ、体重が事故前より20キロも落ちていた。
「スキーをやるにも、これじゃあしょうがない。トレーニングをしようとスポーツクラブに行ったんですね。すると受付で利用を断られて。きっと、障害者を受入れた経験がなく、怪我や事故を心配したんでしょうね。交渉してようやく使えることになったんですが、その時に、障害者向けのインストラクターがいてもいいなと考えて、体育系の専門学校に入学しました」
 もともと、運動神経は人並み以上。それに、競技としてのスポーツが長く負けん気が強い田中さん。障害者のスキー講習会に参加した時に、障害者だけの大会があることを知り、出場。初めての競技(アルペン)で2位に入賞した。とはいえ、1位とは7秒以上の差。
「もう、くやしくてね。3週間後にもレースがあったので、それから毎日、ナイターにも通って猛練習。今度はその1位の選手を破って優勝できた。そこで思ったんです。これはもしかすると、日本チャンピオンになれるぞってね」 
 その思いがきっと、気迫となって現れたのだろう。この大会の活躍が目にとまり、日本代表の合宿に呼ばれ、翌年のジャパンパラリンピックで上位入賞。そして、本人も「そこまでは予想していなかった」という、長野パラリンピック(1998年)への参加が決まった。
 種目は滑降とスーパー大回転。ともに16位の成績で、同じ障害クラスで日本人最高位。だが、本人は納得しない。そこから4年間、ジムに通い、自転車を漕ぎ、さらにあらゆるトレーニングを行った。照準はソルトレークパラリンピック(2002年)。
「本当に、半端じゃないトレーニングを続けました。筋トレでダンベルをどんどん重くしていくうちに、ジムのウェイトが足りなくなったり……。勝ちたい。ただ、その気持ちだけで過ごした4年間ですね」
 出場種目のなかでも、滑降とスーパー大回転に、特に思い入れがある。そのスピード感ともう一つ、田中さんならではの理由からだ。
「アルペン競技のなかで回転、大回転は2回の合計タイムで競うのに対し、滑降とスーパー大回転は1回勝負。そこに魅力を感じるんですね。たった1回、2分そこそこのレースのために4年間を費やす。滑り終わった瞬間の充実感と心地よい虚脱感がたまらないんですよ」
 滑降は21人中17位、スーパー大回転は惜しくもゴール直前でコースアウトしてしまったが、明るく人懐っこい田中さんを慕う“ファン”は多く、大きな声援が響いていた。
 ソルトレイクの2年後、オーストリアで開催された障害者アルペンスキー世界選手権に参加して以降、本格的な競技からは離れたが、毎冬、札幌市内のスキー場で講師を務めるほか、専門学校で障害者へのインストラクションを教えている。夏場はゴルフに通いつめ、全国の障害者の大会に参戦。とにかくじっとしていることがない。
スキー風景01 スキー風景02 ゴルフ風景
 青森の実家は、繁殖牛の育成などを手がける農家。小さい頃から牧場や畑の手伝いをさせられたために、障害を経てもなおトップアスリートとして活躍できる基礎体力がついたと田中さんは話す。それだけに、右足切断の告知をかってでた母親や、家族の思いを推し量る瞬間がある。スポーツなどを通じて障害者の社会的な認知の向上や、同じ障害者として自立して生活を楽しめる環境づくりを考えていきたいと快活に話す田中さんだが、故郷のことに話が及ぶと、心なしか神妙な表情になった。
田中さん たなか てつや●1971年、青森県生まれ。
北海道江別市の文理科短期大学(現・酪農学園大学短期大学部)卒。在学中にオートバイの事故で右足切断。雑誌で障害者スキーと出会ってトレーニングを始め、長野およびソルトレイクパラリンピック日本代表に。スキー講師、体育系専門学校の講師のかたわら、ゴルフなどさまざまなスポーツに取組むマルチアスリート。
札幌在住、35歳
閉じる